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縁 起

「大乗院寺社雑事記」などの歴史文献には、奈良時代(753年・天平勝宝5年)中国より渡来された鑑真和上が、ここ不空院に住まわれたとの記述があります。
また平安前期(810-824 弘仁年間)には、弘法大師(空海)が興福寺・南円堂建立の試みとして、鑑真住房跡であるこの地に雛形の八角円堂の建立を提案して願文を書いたと伝わります。これが不空院の始まりといわれておりますが、定かではありません。ただ八角円堂はこの寺域に確かに建てられ、不空羂索観音が奉安されたのは事実です。(八角円堂は江戸時代・安政の大地震で倒壊しましたが、不空羂索観音は現在も当山に御本尊として御座します。)


南都(奈良)に戒律復興の機運が昂じた鎌倉時代には、不空院・円晴 西大寺・叡尊 唐招提寺・覚盛 西方院・有厳 の自誓受戒四律僧が、ここで戒律を講じ多くの衆生に戒を授けました。その頃には八角円堂を初め鎮守社や僧坊など複数の堂宇を有する寺観が整い、特に鎮守社・御祭神の弁財天信仰はさかんで「不空」転じて「福院」とも呼ばれる活況であったようです。
しかし後の戦乱で寺は衰退、八角円堂以下ほとんどの堂宇も安政の大地震(1854年・嘉永7年)によって倒壊しました。再興果たせぬまま迎えた明治の神仏判然令(1868年)、それに端を発する仏教排撃運動と難は続き、無住職の荒廃は近代に及びました。


再興を遂げたのは大正時代のことです。橿原の久米寺より三谷弘厳和尚が当地に入られ、倒壊した八角円堂礎石の真上に現在の本堂を建立し寺域が整えられました。南市・元林院など奈良町の芸妓たちは、美と長寿・芸事精進の祈願に弁財天女を参り、不幸な身の上の女性が縁切り・縁結びの祠に手を合わせるなどの信仰を集めました。また「かけこみ寺」の役も果たしたことから女人救済の寺として知られ、今日に至っております。

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