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不空院

    しゅんにちざん      
山号 ・・・ 春日山 本尊 ・・・ 不空羂索観音菩薩
宗派 ・・・ 真言律宗 別称 ・・・ 福井之大師
概要

春日山・不空院はその名が示す通り、春日山を背に不空羂索観音を本尊とする真言律宗の古刹でございます。奈良・高畑は春日大社の神職が住まい、多くの文化人に愛された地でもあります。
春日の杜から高円山へと続く門前の小道は、古き奈良の風情を残し、今日も古都を旅する人々が静かに往き交います。ここに足跡を残された弘法大師(空海)を偲ぶ土地の人たちの信仰により「福井之大師」(福井は 不空=福 に発する旧土地名)の別称で呼ばれ、「女人救済の寺」としも知られる所でございます。

「不空羂索観音菩薩坐像」(重要文化財・鎌倉時代)
「宇賀弁財天女」(秘仏・室町時代)
「弘法大師」
「御霊塚」 井上内親王の荒魂をお祀りした塚
「如意輪観音」
「黒竜大神」「市杵嶋姫大神」 縁結びの神
「法竜大善神」 縁切りの神
「稲荷神」
「不動三尊立像」
「不動明王立像」(客仏・奥田龍王 作)
「不度明王立像」(本谷定尚 作)

院内の由来

「大乗院寺社雑事記」などの歴史文献には、奈良時代(753年・天平勝宝5年)中国より渡来された鑑真和上が、ここ不空院に住まわれたとの記述があります。
また平安前期(810−824 弘仁年間)には、弘法大師(空海)が興福寺・南円堂建立の試みとして、鑑真住房跡であるこの地に雛形の八角円堂の建立を提案して願文を書いたと伝わります。これが不空院の始まりといわれておりますが、定かではありません。ただ八角円堂はこの寺域に確かに建てられ、不空羂索観音が奉安されたのは事実です。(八角円堂は江戸時代・安政の大地震で倒壊しましたが、不空羂索観音は現在も当山に御本尊として御座します。)

南都(奈良)に戒律復興の機運が昂じた鎌倉時代には、不空院・円晴 西大寺・叡尊 唐招提寺・覚盛 西方院・有厳 の自誓受戒四律僧が、ここで戒律を講じ多くの衆生に戒を授けました。その頃には八角円堂を初め鎮守社や僧坊など複数の堂宇を有する寺観が整い、特に鎮守社・御祭神の弁財天信仰はさかんで「不空」転じて「福院」とも呼ばれる活況であったようです。
しかし後の戦乱で寺は衰退、八角円堂以下ほとんどの堂宇も安政の大地震(1854年・嘉永7年)によって倒壊しました。再興果たせぬまま迎えた明治の神仏判然令(1868年)、それに端を発する仏教排撃運動と難は続き、無住職の荒廃は近代に及びました。

再興を遂げたのは大正時代のことです。橿原の久米寺より三谷弘厳和尚が当地に入られ、倒壊した八角円堂礎石の真上に現在の本堂を建立し寺域が整えられました。南市・元林院など奈良町の芸妓たちは、美と長寿・芸事精進の祈願に弁財天女を参り、不幸な身の上の女性が縁切り・縁結びの祠に手を合わせるなどの信仰を集めました。また「かけこみ寺」の役も果たしたことから女人救済の寺として知られ、今日に至っております。

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不空羂索観世音菩薩

「春日山」の山号が表すように、当山と春日大社には深い縁があります。当山本尊の不空羂索観音は春日第一神である武甕槌命変化のお姿であります。このために御前には鏡を配し白鹿が控えております。お身体に鹿皮の衣を纏ったお姿を好んだ藤原氏が厚く信仰したといわれます。古くは広く民衆に親しまれた観音様でしたが、藤原氏の信仰仏とされて後は容易に造立されなかったが故に現存数は極めて少なく、奈良を中心に十体足らずが残るばかりです。なかでも当山の坐像は、東大寺・三月堂(法華堂)の立像 興福寺・南円堂の坐像とともに「三不空羂索観音」と称されております。

『不空羂索神呪心経』には「この観音様を念ずれば、人災天災の難を逃れ優れた利益を享受でき、臨終にあっては阿弥陀浄土へ往生する」と解かれています。
不空とは「空しからず」余すところなく人々に利益を施すという、この仏の本願の言葉です。羂索とは本来、鳥獣魚を捕る道具ですが、仏が手にすると人々を救済する象徴となります。「一面三目八臂」お顔が一つ、眼が三つ、腕は八本のお姿で、額の第三の眼「仏眼」は一切を見通す悟りを開いた者の眼です。
正面の手は合掌し、他の四本に 羂索・払子・蓮華・錫杖 を持ち、外の二本は掌を空に向けて開いておられます。観音は悟りを求める修行の姿といわれますが、不空羂索観音は仏眼を持ち、手にする蓮華も開いております。今まさに悟りを開かれたお姿なのでしょう。

元は当山の鎮守社・御祭神として人々に親しまれた弁財天女。現在は本堂の脇檀で厨子にお納めし、特別の折のみ扉が開かれる秘仏とされております。
豊穣福徳の宇賀神と、才智を掌る弁財天が、習合した日本独自の形である宇賀弁才天は、頭上に鳥居型宝冠と宇賀神(頭は老人で体は蛇)を乗せ、八臂(八本の腕)のそれぞれに武器と財宝の象徴を持つのが特徴です。弁財天信仰がさかんであった頃は、多くの人々が当山を参拝したので、「不空」転じて「福院」とも呼ばれたようです。女性の救済と庇護に力を尽くされる弁天様です。
当山・宇賀弁財天女の持物  鍵・輪宝・弓・宝珠・刀・矢・宝棒・三股戟

真言律宗寺である当山では、修法を用いて加持祈祷を行います。護摩法もその一つです。羂索庵は平成26年に落慶し、幸福・除災・縁切り縁結びの願いを込めて納められた護摩木のお焚き上げを毎月28日に執行致しております。
(8月・11月 は、21日)

従来、境内に祀られていた当山伝来の不動明王像に、脇侍となる制多迦(せいたか)矜羯羅(こんがら)の二童子を新たに造立し、三尊像として羂索庵の本尊に安置いたしました。護摩法は、炎の神格化といえる不動明王の加持により執行されます。

奈良の美術振興に貢献され、平成14年(2002年)ご逝去された彫刻家・奥田龍王氏は、不空院と同じ高畑福井町にアトリエを構え活躍されました。
氏が刻み残された不動明王像を羂索庵に客仏としてお迎えし、開眼致しました。

現在も奈良で仏師として活躍される本谷定尚氏は、主宰されます「定尚会」の仏像展を不空院にて隔年に開催しておられます。そのご縁有り、平成26年に発表された不動明王像を羂索庵にご奉納なされました。平成27年8月に開眼致しました。

平安時代、この不空院に在された弘法大師の徳を偲ぶ石像。本尊・不空羂索観音坐像は、弘法大師の手により、興福寺から不空院に移され八角円堂に奉安されました。また、井上内親王の御霊塚も弘法大師の助言により造られました。弘法大師の教えは脈々と継ぎ親しまれ、不空院は「福井之大師」とも呼ばれております。

聖武天皇の第一皇女に生まれ、光仁天皇の后となりながらも、夫である天皇を呪詛したとの罪にて后の座を追われ、幽閉先で非業の最後を遂げた井上内親王。死後しきりに起こった天変地異は内親王の祟りと畏れられ、荒魂を鎮める御霊塚が造られました。かつて内親王の邸宅があったと伝わるこの地でも、井上御霊を祀っております。祀られて後は、不遇の女性を庇護するとして、久しく信仰されております。

御霊塚と並ぶのは、小さな石の如意輪観音。安産・長寿を叶えてくれるという救世観音は、やはり女性の助けとなるようこの寺に祀られたのでしょう。

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「縁切り寺」「かけこみ寺」とは、女性の立場が弱かった時代に不幸な縁から逃れ来た女性を受け入れ救済し、他に異議を言わせぬ特権を有した寺のことです。縁切りの神を祀る不空院も、かつてはその役割を果たしておりました。昭和の初め、名芸妓「照葉」と呼ばれた嵯峨祇王寺の高岡智照尼もこの寺に駈け込み、先々代住職・弘厳和尚によってかくまわれてのち、出家されたのは有名な話です。
そうした歴史から、境内の祠には今も縁切り祈願の参拝者が絶えませんが、当山では縁結びの神様も並んで祀られております。結ぶと切るとは表裏一つのこと。「結ぶ時には切らねばならぬものがあり、切ろうとするには新たに結ぶが良い」との理にございます。

えんむすび − 市杵嶋姫大神・黒竜大神
えんきり  − 法竜大善神

三神はいずれも水の神にて、弁財天とも相通じる性格を持ちます。特にスサノオから生まれた五男三女神の一柱である市杵嶋姫大神は、弁財天女と同一視される当山に縁の深い神様です。

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宗旨・宗派・国籍を問わず、納骨堂「安穏廟」にて永代供養をお受け致しております。先祖代々のお墓が遠方である、お墓を建てても守る次世代が無いなど、現代「お墓」「供養」の悩みや不安を持たれる方は増えております。境内に設けました安穏廟では、納められた大切な御親族・御先祖の霊に対し、敬畏・責任をもって永代に渡りご供養を致しております。また、ご自身の将来についての生前相談も承っております。

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院内の樹木

西大寺・叡尊のお手植えの菩提樹

鎌倉時代の西大寺僧・叡尊は、ここ不空院で多くの衆生に戒律を講じました。真言律宗総本山である西大寺に伝わる叡尊お手植えの菩提樹の一枝を、先代住職・弘昭和尚が授かり境内に植えて、大切に育てたものです。

古事記・日本書紀に残る垂仁天皇の御代、常世の国よりもたらされたと伝説される大和橘は、万葉の歌にも多く詠まれております。
奈良盆地を南北に走る古道のうち「中ツ道」は、平城京から飛鳥は橘寺へと通じており「橘街道」とも呼ばれました。平成25年、古道中ツ道を大和橘の並木道にするための植樹活動が始まりました。
この活動に賛同して、境内に大和橘の苗木を植樹致しました。

なら橘ブロジェクト http://tachibanakaidou.jp

加藤清正が豊臣秀吉のために朝鮮から持ち帰ったとされ、一株に白桃 紅 桃地に紅絞り 白地に紅絞りなど五色が咲き乱れます。散椿の名の通り、首からぽろりと落ちることはなく花びらを散らします。
その様子を武士が好んだようです。庫裏の中庭に春に咲きます。

かつて不空院にあったと伝わる八角円堂。現本堂は、その礎石の上に建てられております。古絵図にのみその姿を残す八角円堂を今一度建立し、御本尊・不空羂索観音を奉安したいと願い、結縁の散華を通じての浄財を募っております。
散華の絵は不空羂索観音の御加護が有りますよう願い、一枚々手書きされております。お求めになった方々のご芳名は大切にし、建立の折には八角円堂に刻ませて頂きます。
(不空院までお問い合わせください)

Address: Takabatake-cho 1365, Nara-shi, Nara-ken
Access: Opposite to Shin-Yakushi-ji temple. Approximately 10 minutes by car, and a 25 minute walk from both Kintetsu Nara station and JR Nara station. The nearest bus stop is at ‘Wariishi-cho’ and then a 10 minute walk heading 500m east in the direction of Shin-Yakushi-ji Temple.

We are open to the public during two weeks in the Spring and Autumn. Please contact us in advance if you would like to visit at times other than the special viewing weeks.

We hold Buddhist memorial services on the 21st of January, April, August and November every year. Additionally we have a goma holy fire ritual ceremony from 11:00 on the 28th of every month, except during the months noted above. Please feel free to contact us and participate in these services, regardless of your religious faith or sect.

Tel: 0742-26-2910

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The syncretization of Buddhist and Shinto traditions

Nara is known historically as the eastern end of the Silk Road, where vestiges of the ancient traditions of Animism, Buddhism and Shinto have co-existed for over 1300 years.
Fukū-in is an ancient Buddhist temple located in the serene surroundings of modern day Takabatake-cho, originally sited within the shrine precinct of Kasuga Taisha. It has a vermillion torii gate, usually seen at the entrance to Shinto shrines, within in its garden.

The principal image of worship within the temple is the Fukūkensaku Kannon, thought to be an incarnation of Takemikazuchi, one of the four gods of Kasuga Taisha.
The Kannon statue has three eyes and eight arms, and wears a deerskin across its shoulders.
A pair of wood-carved white deer and a mirror, among the main religious symbols of Shinto, can be seen at the foot of the Kannon.
In one of the Kannon’s eight hands a lotus flower is seen in bloom. This has the symbolic meaning that the Kannon has attained enlightenment at the same level as a healing Buddha or Nyorai, possessing the power to save and offer compassion to all living things.

Apart from Fukū-in, Tōdai-ji and Kōfuku-ji temples also have famous Fukūkensaku Kannon deities. The Kannon at Kōfuku-ji is only open to the public on one day per year, October 17th. Many people visit each of the temples on this day to offer prayers to all three Fukūkensaku Kannon.

Shingon Risshu

Shingon Risshu is a comparatively small school of esoteric Buddhism in Japan.
Jianzhen (688-763) also known as Ganjin, was a Chinese monk who helped to propagate Buddhism in Japan, and founded the Risshu school at Tōshōdai-ji, stayed for a short time at Fukū-in. Kūkai (774-835) a Japanese monk, civil servant, scholar, poet, artist and founder of
the Shingon-shu school of Buddhism also stayed at Fukū-in during the early Heian period.

Later in the Kamakura period, four learned monks including Eison (1202-1290)
integrated the teachings of Shingon-shu and Risshu to form the Shingon Risshu school at Saidai-ji, educating many young monks to ordain as priests.

Many of the temple buildings of Fukū-in were destroyed in the major earthquake of 1854,
which led to its eventual abandonment by monks of that time, who left the Fukūkensaku Kannon
in the heavily-damaged main hall.

Mitani Kōgen (1893-1963), a monk of the Taisho period and ancestor of the current chief monk, repaired the ruined temple leading to its revival. Fukū-in continues to deliver the light of Shingon-shu and Risshu as a branch temple of Saidai-ji, the headquarters of Shingon Risshu.

The Temple for Women's Refuge

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Fukū-in is known as a temple related to en-kiri and en-musubi, the separation and matchmaking of relationships. Within the Main Hall, a statue of Benzaiten sits alongside
the Fukūkensaku Kannon. She is a powerful goddess who provides relief and protection, and has become the focus of women’s worship. During the early 1930’s, a former geisha called Teruha took refuge from an unhappy relationship at Fukū-in.
Protected by the monk who had restored Fukū-in, Mitani Kōgen, she entered the Buddhist priesthood at Kume-dera Temple. She latterly became a Buddhist nun known as Takaoka Chishō (1896-1994) residing at Giō-ji in Kyoto, and renowned as a haiku poet. Today, people wishing to separate from unhealthy relationships, and hoping to make happy relations, visit to pray at Fukū-in.

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